
友人を訪ねて Bolzano へ行くことにした。
イタリアの冬は暗い。
朝の7時に Genova を出発し、いったん Milano Centrale を経由し、Verona でアルプス行きの線に乗り換え、およそ半日。
駅から少し歩いた Waltherplatz にはクリスマスのマーケットが並び、間もなく迎える夕刻の準備に勤しんでました。

Waltherplatz にて
まずはこの日に泊まる宿、Kolpinghaus に荷物を置き、ユキちゃんの案内でぶらぶら散歩。

Succo di Mele Caldo
先ほどの Waltherplatz の、タバッキの奥にちょっとした中庭があり、ホットワインなどが飲めるようになっていました。ユキちゃんは Bolzano でオペラの勉強をしているのだけれど、ちょうど訪ねて行ったこの晩に市役所や大学職員さん方のナターレ(イタリア語でクリスマスのこと)納会があり、歌を依頼されたとのこと。なのでまずはシードルのあったかいので温まることに。

プレッツェル
Bolzano は Bozen とも書く。この地域には古代エトルリア人の末裔たちが生活していたと考えられています。紀元前15年頃ローマ帝国時代にローマ人たちが征服・入植し、神聖ローマ帝国時代の1027年には、近隣の地域と共にトレント司教の領地として定められた場所。
しかし1277年、トレント司教の臣下であったチロル伯マインハルト2世によって征服され、また1806年の神聖ローマ帝国解体後はナポレオンのイタリア王国の一部となったが、ナポレオンの戦争終結後に起こったウィーン会議の結果、Bolzano はオーストリア領内のチロル伯領に戻ったのです。
20世紀に入り、第一次大戦でドイツとオーストリア・ハンガリーの同盟軍が敗れると南チロルがイタリアに割譲され、ムッソリーニによるイタリア化政策が強引に進められた。そうした経緯もあり、第二次大戦時にはドイツ軍が占領するなど、ドロミーティ山地はナチス・ドイツ軍と連合国軍の戦場となっていきました。
第二次世界大戦後、ボルツァーノや南チロルのドイツ系住民の間で独立運動の機運が高まったが、11年に及ぶ調停と交渉の結果、イタリア政府は南チロルに自治権を付与し、また1996年には、EU;欧州連合のもとで「チロル=南チロル=トレンティーノ (Tyrol–South Tyrol–Trentino Euroregion) 」が設立され、イタリアの南チロルとトレント自治県、オーストリアのチロル州による国境を越えた協力関係がより盛んになっています。
こうした歴史に翻弄されてきた Bolzano には、イタリア語話者ではない方が多くいて、オーストリア文化圏にある一つの地域であることを実感します。

クリスマスの飾り
イタリアなのに、建築などの街を構成する要素がイタリア的でないことも、さまざまな歴史の出来事があったことを感じさせる。

Pizzeria
例えばこの “Pizzeria” のタイポグラフィは南イタリアではあまり見かけないフォント。
そして山の暮れていくのがほんと早い。

プレッツェル 2
17時半にはこんなに真っ暗になってしまった。
どこからともなく、人が集まる。Waltherplatzを目指して。

Waltherplatz 2
昼の様子とはうって変わって、あかりの灯った屋台がとても印象的。
大聖堂の屋根色との対比で。

屋台にて
イタリアでのクリスマスは日本での年越しと同じ装い。
多くの人が年越しの準備をするため、いろいろなものを買い込む。
飾りやおもちゃ、お菓子の他、日用品なども。多くのお店もまた、休みになってしまうから。

中庭
昼間に訪ねた中庭では、多くの方がホットワインとおしゃべりを楽しんでいました。
大人には大人の楽しみで盛り上がって。

コンサートがはじまる
ユキちゃんのミニ・コンサートが始まるので Kolpinghaus; コルピンハウスに戻る。
コルピンハウスの地下にはこんな立派な空間があった。
街の歴史や変遷がフレスコ画で描かれていました。

双頭の鷲
様々な歴史を象徴するかのように、ハプスブルク家の双頭の鷲のレリーフが扉の上にある。
そして ユキちゃんの歌う アヴェ マリア の美声と南チロルの料理が繰り広げられた時はゆっくりと過ぎていく…。

Antipasti 1

Antipasti 2

Carni

dolci
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